何かこう、的を敢えて外したようなやりとりは、聞いていても見ていても「いらっ」としてしまう。
たかが仕事のこと。
これくらいでイライラしていたらいかんな、と思いつつも、やはり「いらっ」として、いかんいかん。
一人芝居を打っていたりします。
私が私を褒めるわけではないけれども、でも、この一人芝居が打てなくなったら、私も危機感を感じられない程に麻痺させられてしまっていることにも気付けない状況になってしまうのだろう、とも感じる。
学生時代、NPO時代に、「茹で蛙」の話をよく聞いた。
その状況と類似する。
蛙をお湯に入れると、熱くて飛び出してくるのだけれども、ぬるま湯に入れてゆっくりと熱し続けると茹であがってしまうまで気付かない。
実際にやったら、多分途中で出てくるとは思うが、でもそういうことである。
ぬるま湯に浸かっていると、自分の感覚が麻痺させられてしまい、果ては麻痺させられてしまっていることにも気付けないという悲劇が待っている。
行き着く先は、自分で自分のことをナヴィゲードできない、人や環境に自分の人生を委ねる、いわゆる「考えない人」になってしまうように思う。
時にイライラして、的外れな議論に真っ向から対峙しつつ、それでいてアサーティブにやりとりすることを心がけて、私自身の感覚に、そして社会人としての振る舞いについて、常に敏感でいたいと思うこの頃です。