2024年12月29日日曜日

住野よる『腹を割ったら血が出るだけさ』双葉社、2022年(Audiobook版、2024年)

  昔は昔、今は今。「今の若い子たちは、考えることやいろんな見られ方への対応とか、大変だな」と思っていたが、こういう現代小説から感じられる、いわゆる「今の若者」の姿ってやっぱりイメージでしかなくて、結局は個別の感覚なのだな、と思ってしまう。少なくとも自分の土俵とは異なる土俵に皆立っているわけで、同世代の人達が共通認識をもっているのかというと甚だ疑問ではある。案外、いわゆる「今の若者」を仮想敵と仮定したときに、「敵の敵は味方」的に、ワン・プロジェクトっぽく手を結んでいるだけかもしれない。だって、同世代だって物事の捉え方の感覚は個別だから。

 内容は、作中に登場する『少女のマーチ』なる読む人の解釈を許すような小説をモチーフに、自分の本音で生きたいと願いながらそれが成就しない女子高生と、表裏のギャップにアイデンティティを揺さぶられているアイドル、彼女らを取り巻く人間関係が語られる。ミステリとは言い難いが、モチーフに解釈が入り込むために、登場人物の思考が読み切れずついつい引き込まれてしまう。

 Iyokiyehaの人間関係の捉え方とは全く異なるそれを、ある若者の視点を、節毎に切り替えながら一つの物語を組み立てていく。「自分とは異なる考えを押しつけられる」。本書の一節だが、そういうものなのだなと感じる。若者の人間関係なんて、多分理解できないし、自分の考えるそれとは全く異なるものだから、摩擦すら感じるのに、それでも興味深く聴き進めてしまうのは、この作者のプロダクトに対して素直になれたと考えることにしよう。

---(続)

 とはいえ、小説というのはすごいプロダクトなのだと思う。若者達の会話と思考を言語化することによって、人間の感情というものをそれを読む人に重ねながら、空想世界を展開していく。それは「そんなバカなことあるかぃ!」って思うようなフィクションであったとしても、どこか自分の感情に重なったりかすったりするので、ついつい小説の世界にひきこまれてしまう。普段から小説にはそういうところがあったように思うが、感情の言語化とそれが立つ基盤に「解釈」が入り込むというしかけが、こう思う自分を客観視できた一助となっているのだろう。

赤字体質 241009

  こづかい管理が甘くなっていたな。電子決済って手軽が故に、消費刺激にはなるんだけど、一方で管理が甘くなるのも事実。半年くらい消費刺激が優位になっていたようで、蓄えが削られていることをようやく清算できた。どんぶり勘定はよくない。あとは、会合の機会が増えているのもいい刺激になっているな。

 とりあえず年末まで、緊縮財政モードでいきます。

博物館の解説 241009

  引き続き、川越ネタ。

 去年末から5回くらいになるか。サボり先に認定されている川越。本川越駅を中心に、観光案内に載っているところで、歩いて行けるところは大体回っている。蔵造りの街並みの近辺は目的地が明確なら、地図なしで大体たどり着けるくらいに、主要な横道くらいまではほぼ歩き尽くした感がある。

 昨年末から改装工事をしていたらしい、川越市の博物館。今回は特に予定がなかったので、じっくり観に行くことができた。川越市の歴史があけぼのから、中世を経て近代まで概観できる展示が大変面白かった。でも、今日はもっとツイていた。市内の小学生が社会科見学か総合学習あたりで、団体利用があり、なんとガイドの声が丸聞こえ。ラッキーすぎて1時間以上滞在してしまう。

 博物館なんかでも「キュレーション」って使える言葉なのだろうか。展示物の並べ方や組み合わせの見せ方で学びの質が変わる、ということは、自分なりに感じ取れることだけれども、やっぱり「インタープリテーション」って大事だよな、って改めて思いました。私にとっての「インタープリテーション」って自然体験活動が入り口なんだけど、物言わない展示物を使った語りやプレゼンテーションも「インタープリテーション」って使っていいよね。キュレーションとインタープリテーションがかみ合った時に自分に起こるインプットって、知識が背景や時系列を伴って、文字面だけじゃない生きた知識みたいなものとして入り込んでくる感覚があるよね。いわば「じーんとくる体験」みたいなもの。そういうプレゼンに出会えると、いやぁホントラッキーだと思う。今日はそんなラッキーデーでした。

 現在にも残る地名や建造物から、その仕組みを展示物を使って動きを伴って説明する。川越は江戸時代に大きな家事があったことから、蔵造りの建物には家事を防いだり、被害を抑えるような仕組みが備わっている・・・北側に窓がなくて、土壁が備わっているというのはそういうことなんだな、と分かると、街並みの見え方もちょっと変わって見えてくる。博物館から昔の川越にタイムスリップできたような、そんな気分になれたひとときでした。

 生徒さんが退出した後に、山車の写真を一通り見て出口へ。説明していた職員さんから「お騒がせしました」なんて言われたので、「いえいえ、大変勉強になりました。ありがとうございました」と御礼。最後まで気持ちいい寄り道でした。

何も考えないことを一生懸命やってみる 241009

  ここのところ、偏頭痛を思われる体調不良が続いており、一昨日は気持ち悪くなる程度、昨日は朝から鎮痛剤を服用しての仕事だった。以前から、今日は自分のための休みを決めていたこともあったのだが、ちょうどいい頃合いでサボりに突入。

 秩父まで行こうかと計画をしていたが、あいにくの天気(朝から結構な雨)なので、予定変更していつもの川越へ。いつものお店でうまい昼飯を食ってエネルギー補給しようと考える。PePeのスタバで作戦休憩をと思うが、予定変更。テキトーなPODCASTを聴きながら、日記をつけてぼんやり。雨がやんできたのを横目に見つつ、合気道ページの構想・コンテンツを少しずつ作ってぼんやり。Audiobookで小説を聴きながらぼんやり。「いろいろやってるじゃん」と言われるかもしれないが、自分にとっては、普段やらない(できない)ことを表に出すかどうかは別として、のんびり・無計画にやってみているので、頭の稼働率が適度に保たれており、心地いいのではなく「ちょうどいい」。職場で何かを読んだり、書いたり、話したりするときにキリキリと痛む頭はどこにもなくて、自分の状態に合わせてインプット・アウトプットがなされている。寝る前の自分座禅で頭の稼働率を落としていくのとはちょっと違った感覚、これが俗に言うところの「ととのう」なのかもしれない。表現はともかく、歯止めや摩擦がなくするすると自分の身体と頭が働いているような感覚に、ちょっと戸惑いながらも、とても楽な時間を過ごしていると実感する。

 川越へくると、とっても楽しかったり、なんだか心地よかったりするので、すっかり自分の中では手軽な小旅行、身近なサボり先、になっているのだけれども、こういう前向き刺激はいくらあってもいいと、改めて感じる。自分にとってのこういう場所が他にもあっていいと思うけど、川越にはしばらくご厄介になると思うな。よろしく。